JSP 2(1) 先行公開
Journal of Science and Philosophy Volume 2, Issue 1 (March, 2019) 掲載論文の一つを先行公開いたします。
日本語の学術誌には珍しい「討論」の論文です。
- 討論対象論文:桑原司 (2017) 「アリストテレス『カテゴリー論』における述定とヒュポケイメノン」, 上智大学哲学会(編)『哲学論集』第46号, 95–111頁.(リンク先最下部の「ダウンロード」にあるPDFへのリンクをクリックしてください。)
論文に限らず、文章というものは書いて出版して終わりではありません。読まれ、議論されねば、その文章はただの記号の羅列といっても過言ではないでしょう。
本論文で、著者の横路氏は異分野の研究者による論文に議論を仕掛けます。著者の丁寧な読みは、「述定」をめぐる具体的な議論の応酬に留まらず、分野を越えた議論自体が持つ困難さと可能性を露わにします。読者の皆さまには、そのような大きな視点から本論文を批判的に読まれることを、やまなみ書房は推薦します。
詳しくはこちらをご覧ください。
[著者PR]
かつて、古典哲学と分析哲学は蜜月の関係にあった。古典哲学者は分析哲学から新しい知見と発見を吸収し、分析哲学者は古典哲学で得られた成果を思想的源泉としていた時代が、確かに哲学にはあった。しかし、研究の細分化は成熟したあらゆる分野が迎えるべき宿命である。蜜月時代は、いまやふるきよき昔話となりつつある。
本討論は、この現状に一石を投じるべく、分析哲学者(横路佳幸)が同世代の古典哲学者(桑原司)に送る、挑戦状である。
取り上げるのはアリストテレスにおける「述定」である。たとえば、我々が「ソクラテスは人である」という形式の述定をおこなうとき、我々は一体いかなることをなしているのだろうか。最新の論文で桑原は、述定を新しく言語行為(speech act)の一種として理解し、この解釈は従来の標準的な解釈と対立すると論じた。
しかし本論文で横路は、言語行為の中でも特に主張(assertion)に着目することで、「主張としての述定」が桑原の解釈と整合的であること、そして桑原の解釈が必ずしも標準的な解釈と対立しないことを示す。その結果、桑原の議論には看過しがたい不備と問題が残ると横路は結論づける。
奇しくも、蜜月の黄金期に活躍したJ. L. オースティンに由来するアイディア「言語行為」を討論の中心に据えながら、いま、分析哲学が古典哲学に、再会を果たす。